文脈

 中学の担任が良く言っていたことがある。芸術は文脈の中で捉えるべき、というものだ。例えばそれを現代文教育の中で強く意識するのはプロレタリア文学あたりだろうか。逆に、それ以外ではその文章そのものをかみ砕くことに必死になって、文脈の中でその立ち位置を認識することは疎かになりがちなんではなかろうか。

 

 たとえば、明治以降、黎明期の日本文学はヨーロッパの文学を翻訳というフィルターのみを通して受容するだけで、そこに批判的精神はほとんど存在しなかった。だが、当時のフランスでは、ロマン主義から自然主義文学への過渡期にあって、文壇は混沌としていた。

 

 芸術の流行というのは前時代の流行の反省が結実したとき、新たなムーブメントとして大成する。つまり、(新)ロマン主義に対するアンチテーゼとして登場したのが文学にあっては自然主義だったし、絵画では印象派であった。要するに、彼らは批判的精神の結果だという訳だが、当時の日本にはその批判や反省といった文脈が欠落したまま輸入されたということだ。

 

 ようやく自国の文学として成熟した日本文学史を評論から批判的に読み解くというのがその先生がしてくれた授業で、とても面白かったのを覚えている。ただ内容は大体キレイに抜け落ちてしまって偉そうに語れるものではないことを付言しておく。

 

 そういうことを思い出していた時分に、偶然古典ボカロを聴く機会があった。ボカロ流行初期からの友人におすすめのBGMは無いかと尋ねたら、昔懐かしボカロ曲を勧めてきた。初期から親しんでいたボカロとニコ動であったが、高校で部活や文化祭が忙しくなると同時に完全に離れてしまった。なんなら、現在の音楽趣味と対比して、彼らの作品を下に見てしまうことすらある。ただ、やはり聴き馴染みのある曲は魅力的で、とても作業など務まらなかった。

 

 そんなかつて大好きだったボカロとの距離をいくらか置いていたお陰で得た視点がある。つまり、ボカロの流行を文脈の中で捉えるというメタ的視点だ。

 

 黎明期のボカロ界では『恋するVOC@LOID』に代表されるように、初音ミクを「機械仕掛けの女の子」という枠組みで捉えた曲が流行った。ある程度の制限が与えられた方が、みんな創作しやすかったし、受け手も解釈しやすかったのだろう。だが、作り手が増えるに従い、作品は飽和してきた。受け手も一辺倒な作品に飽きが来たのだろう。初音ミクの解釈は次のステージに移行する。

 

 次の段階では、初音ミクをより広義に捉えた。つまり、シアン髪でツインテールの女の子という、初期の設定だけに忠実に解釈したのだ。それ以外の要素は全て作り手に委ねられた。あるいは、作り手は受け手に解釈を預けることが出来た。その中で出来たムーブメントが、ボカロだから出来る表現をしようというものだろう。wowakaに代表される、第2世代のボカロPは人間とボーカロイドの対比で曲を書いたのだ。ボカロだからこそ歌える超高音域や、高速の歌詞はボカロの独自性を広げた。一方で、機械音が目立ち、一般受けのしにくい方向に進んだのも事実だと思う。

 

  この方向性の旗手であったwowakaがボカロから離れていく頃、スターPという認識が確立したように思う。つまり、Deco*27や40㍍Pなどだ。彼らは、自作曲を凄いペースで発表し、ヒットさせることでボカロを次のステージに移行させた。

 

 つまりそれは、ボカロを自己表現の完全な道具へとするものだった。こう書かれることを彼らがどう思うかはわからないが、僕はそう認識している。これまで「初音ミク」という人格の上にどう曲を作るか、歌わせるかというのがメインストリームだったが、P名が先行することで、この土台は崩れていった。Pがどういう曲を書くかが重要になり、それを歌っている「初音ミク」という人格は少しずつ見殺しにされていった。成熟した文化において、Pの個性がより重要視されたのだ。

 

 これはマーケティングの失敗もあると思う。次世代初音ミクとして、鏡音リン、レンやGUMIなど多くのキャラを出した結果、それぞれにしっかりしたキャラクターが定着せず、結果としてキャラが声質を残して形骸化してしまった。勿論、シアンでツインテの女の子であるというものを残して一切の設定を与えなかったからこそ広まった創作もあったが、だからこそ時がたつにされて「初音ミク」の心は埋没していった。

 

 この頃におこったスマホの普及やそれによるファン層の広がりがもたらしたのは、ボカロの商業化だった。有名PになればカラオケやCD,ライブで収益を得ることが出来る。ボカロブームのおかげで、小説やアニメ化などのメディアミックスまで行われることになった。あるいは、ボカロを足掛かりに、アニソン界などで対等する人間が現れた。そういう受容の仕方が広まった結果がカゲプロである。商業化するにはわかりやすいキャラ設定を与えることが必要で、シリーズ物が流行るとともに、その足枷になる初音ミクのキャラはなかったことにされ、声が初音ミクなだけの知らないオリジナルキャラが台頭した。この時、僕の中で「初音ミク」の心は完全に殺されてしまったと思った。

 

 それ以降はボカロから足が遠のいていくばかりだった。幼い頃親の車の中でよく聴いたB'zやサザンにハマり、現在のR&Bの沼にハマっていった。こう書くことすら悲しさを覚える。そもそもボカロは音楽という次元でだけ捉えられる文化ではなかったはずなのだ。もっと色んな可能性を孕んでいたに違いない。だからこそ僕は魅了されたし、みんなが夢中になったのだと思う。最初期のボカロ作品は音楽カテゴリに投稿されていたが、その先人たちがVOCALOIDカテゴリを勝ち取った。あるいはMMDなども音楽だけでないボカロ表現のひとつだろう。あれこそ今のVtuberブームの先駆けだったんじゃないかと勝手に思っている。

 

 これを書いて現在のボカロを貶そうなんて気持ちは微塵もない。メタ的な視点をようやく得るだけの時間、ボカロから離れていたことに感傷的になっているだけだ。

 

 そして、最近かつてのボカロを懐かしむこととあわせて、最近のボカロを聴いてみようとしている。まずは文脈など忘れて無我夢中に楽しもうと思う。それだけの時間が僕にはあっただろうから。そして、今後、美術館などで古典を楽しむ時は二度とこの文脈を忘れないようにしたい。